北海道の観光地として名高い「函館」には、かつて「箱館」とも書かれていた歴史があります。観光地の案内板や古地図、歴史的施設の看板などに今も残るこの旧表記に触れ、「なぜ同じ『はこだて』に異なる漢字が存在するのか」と疑問を抱く人は少なくありません。
一見すると単なる表記の違いのようにも見えますが、実はそこには江戸から明治にかけての地名改称の歴史的背景や、漢字の意味に込められた文化的な価値観が深く関わっています。近年では、歴史愛好家や地元住民をはじめ、旅行者やガイドの間でもこの表記の違いに関心が集まりつつあります。
本記事では、「箱館」と「函館」という漢字の意味の違いや、改称に至る歴史的経緯、そして観光地における現在の使い分けなどを詳しく解説します。歴史的文脈と現代の文化的な意味づけの両面から、二つの表記が持つ奥深い背景に迫っていきます。
漢字「箱」と「函」の違いとは?
漢字の意味と成り立ち
「箱」という漢字は、竹冠に「相」という字を組み合わせて構成されています。「竹」は竹製の容器や道具を表す意符であり、「相」は中身を見比べる、合わせるといった意味を持つ字です。これにより「箱」は物を収める入れ物、特に木製や竹製の蓋付き容器としての意味が生まれました。日常生活で使われる道具としての印象が強く、親しみやすい文字でもあります。
一方、「函」は「函谷関」など地名にも使われる文字で、「物を入れる容器」を意味する点では「箱」と共通していますが、由来には若干の違いがあります。甲骨文字や金文の段階では、蓋と身が一体化した密閉性のある容器を象った字形であり、主に文書や印信など貴重な物品を納める用途を表していました。そのため、「函」はより格式のある、儀礼的・官僚的な印象を持つ字とされています。
なぜ同じ「はこだて」で漢字が変わったのか
「はこだて」という地名において、なぜ「箱」と「函」という異なる漢字が用いられてきたのかには、いくつかの歴史的・文化的要因が関係しています。江戸時代には港町として発展した地を記す際、比較的日常的な語感を持つ「箱」が用いられることが多く、地元民の感覚にも沿った選択といえます。実際、「箱館」という表記は松前藩の支配下で早くから使用され、公文書や古地図に頻繁に登場していました。
しかし明治以降、中央政府による地名整備の中で、「函館」への改称が行われた背景には、行政用語としての整然さや格式を重んじる意図があったと考えられています。「函」は官用語として好まれる傾向があり、たとえば「公函」「密函」など公的な文書や通信を指す言葉にも多く見られます。また、視覚的にも左右対称で整った印象があることから、都市名にふさわしいと判断された可能性もあります。
他の地名でも表記の揺れは珍しくなく、特に音読み・訓読みのバリエーションがある語や、漢字の選定に地域差や時代の傾向が反映されやすい名称では、歴史的な事情により漢字表記が変更されることは珍しくありません。「箱館」から「函館」への移行も、そうした日本語の表記文化における一例として位置づけられます。
「箱館」から「函館」への改称の歴史
「箱館」の由来と使用開始時期
「箱館」という名称は、室町時代の享徳年間(15世紀)に河野政通が築いた館に由来し、江戸時代には松前藩の支配下で港町として発展しました。この地はもともと和人地と蝦夷地の境界に位置し、交易や外交の拠点として発展を遂げていきました。箱状の館を意味する「箱館」は、そこに建てられた交易施設や陣屋などを象徴する言葉として使われ、17世紀後半にはすでに地域名として定着していたとされます。
江戸幕府が蝦夷地を直轄領としたのち、1802年には「箱館奉行所」が設置され、公的文書や行政記録においても「箱館」という表記が公式に使用されるようになります。この表記はその後の数十年間にわたり、幕末期の開港や外国領事館の設置などを通じて内外に広まりました。箱館戦争などの歴史的事件に登場する「箱館」も、この時代の正式表記に基づくものです。
改称のタイミングと背景
明治維新によって幕府が崩壊し、新政府が全国的な行政制度の再編を進める中で、「箱館」もまた改称の対象となりました。1869年(明治2年)、新政府は蝦夷地全体を北海道と命名し、その下に道庁に相当する役所として開拓使を設置、函館に出張所を置きました。このとき、「箱館」から「函館」への表記変更が行われ、以後の行政区画や地名としては「函館」が用いられるようになります。
改称の背景には、新政府による中央集権体制の確立と、地名の標準化を図る意図がありました。「函」の字は、より官僚的で整った印象を持ち、近代的な地方行政のシンボルとしてふさわしいと判断された可能性があります。また、維新後の文明開化政策において、地名を刷新すること自体が「近代化」を象徴する一手段とされる風潮も存在していました。
公式文書での移行と使用例
「函館」という表記は、1869年以降、政府発行の官報や布達、地方行政の記録において一貫して用いられるようになります。たとえば、明治初期の『官報』における府県設置に関する告示では、「函館県」という名称が正式に記されており、「箱館」という旧表記は次第に公的文書から姿を消していきました。
一方で、移行初期には地元住民の間で旧来の「箱館」表記が継続して使われる場面もありました。新聞広告や商標など、民間レベルでは改称がすぐには浸透せず、明治中期ごろまでは「箱館」と「函館」が混在する事例も見られます。しかし、学校教育や鉄道・郵便の整備が進む中で、全国的に「函館」という表記が定着していきました。官民の文書における統一が進んだ結果、現在では「函館市」が正式な表記として確立されています。
歴史的文脈における「箱館」表記の使われ方
「箱館戦争」「箱館奉行所」に見る旧表記
戊辰戦争の末期に起きた「箱館戦争」は、旧幕府軍と新政府軍の最終決戦の地として知られています。この戦いは1868年から1869年にかけて行われ、五稜郭を拠点とした旧幕府軍の動きが中心となりました。当時の新聞や記録文書では一貫して「箱館戦争」という表記が使われており、地名の旧字体がそのまま反映されています。
また、江戸幕府が蝦夷地を支配下に置いた際に設置した「箱館奉行所」も、「箱館」という字が公式名称として用いられました。奉行所は外交・防衛・交易の拠点として重要な役割を担い、19世紀初頭の設置以来、公文書や通達には必ずこの旧表記が登場します。近年、函館市内に復元された「箱館奉行所」の施設でも、あえて当時の表記を再現しており、歴史的な文脈を意識した名称の使い方が確認できます。
古文書・古地図での用例と読み解き
「箱館」の表記は、江戸時代から明治初期にかけての多くの古文書や古地図に登場します。例えば、幕府が作成した蝦夷地の測量地図や、オランダ語訳とともに印刷された交易関係の記録類などにおいて、「箱館」は地域の中心都市として記載されていました。これらの資料では、漢字表記に加えて当時の書体や筆致から、使用された年代や記録の性質を読み取ることもできます。
古文書では、「箱館之図」や「箱館港出入船帳」などのように、実務的な用途においても広く「箱館」の文字が使われており、その表記は港湾都市としての機能や政治的役割を表す記号として定着していました。地図の中には、「箱館山」や「箱館表口」など、地名の一部として「箱館」が付されている例もあり、単なる町名にとどまらず、周辺地域との関連の中で多用されていたことがうかがえます。
こうした史料の中に現れる「箱館」の字面は、当時の行政体制や地域認識を理解するうえで貴重な手がかりとなります。時代ごとに用字の変化を追うことで、近代以前の函館地域がどのように位置づけられていたのかを視覚的にたどることができます。
現代に残る「箱館」表記と観光での使い分け
観光地であえて使われる「箱館」の魅力
函館市内では、観光施設やイベント名、案内看板などに意図的に「箱館」の旧表記が用いられることがあります。たとえば、「箱館奉行所」の復元施設では、歴史的背景に即した名称をあえて採用し、来訪者に江戸時代当時の雰囲気を感じさせる工夫がなされています。施設内の展示物やパンフレットにも旧字が多用されており、観光コンテンツとしての演出に寄与しています。
また、五稜郭周辺を中心に開催される歴史関連イベントでは、「箱館戦争まつり」や「箱館開港記念」などの表記が使われ、地域の歴史に根ざした世界観を演出しています。こうした使い分けは、単なる表記の違いではなく、過去の時間と空間を呼び起こす装置として機能しており、観光客にとっても一種のストーリーテリングの要素として受け入れられています。
さらに、レトロ感や郷愁をテーマにした飲食店や土産物屋の店名にも「箱館」の字が使われることがあり、他地域にはない独自のブランド感を醸し出しています。こうした表記選択は、商業的な視点からも観光資源としての活用価値が認められている事例といえます。
現在の行政表記とその影響
一方で、現在の行政表記として正式に使われているのは「函館」であり、役所の名称や市の公式サイト、公共施設の案内などでは一貫してこの表記が採用されています。道路標識や鉄道駅の表記でもすべて「函館」に統一されており、現代の生活基盤としての表記には変更の余地はありません。
教育現場においても、「函館市」が正規の表記として教科書や資料に記載され、小中学校の地理・歴史の授業では「箱館」はあくまで旧表記として位置づけられています。このように、公的な領域では一貫して「函館」が使用され、統一的な表記ルールが市民生活や行政手続きに反映されています。
ただし、例外的に観光パンフレットや文化財の解説板などでは、説明文中に「箱館(現在の函館)」という形で旧表記が併記されることがあります。これは過去の地名の意味を適切に伝えるための配慮であり、訪問者に対して歴史的背景を理解してもらうための工夫といえます。
表記の違いが伝える歴史の深み
地名の変化から読み解く歴史的文脈
「箱館」から「函館」への表記変更は、地名が単なるラベルではなく、時代の思想や政策を映す存在であることを物語っています。江戸時代の「箱館」は、地方の港町としての機能や地域的自立性を反映していましたが、明治期に「函館」と改められたことで、国家的な行政システムの一部として組み込まれる象徴ともなりました。
地名の変化には、しばしば中央集権的な意図や近代化の理念が投影されます。たとえば、明治初期に各地で行われた府県名の統廃合や漢字表記の統一には、言語の標準化や行政効率の追求といった背景がありました。「函館」もまたその流れの中に位置づけられ、新たな国家像を築こうとする明治政府の意志が色濃く表れています。
また、表記変更を通じて地元住民の認識や帰属意識も変容していきます。旧来の「箱館」という地名が持っていた地域共同体としての記憶や誇りは、時間の経過とともに「函館」という新たな表記の中に組み込まれ、語り継がれる形へと姿を変えていきました。こうした変遷は、地名が単なる音や文字ではなく、人々の生活や価値観に深く結びついていることを示しています。
地元に根ざす表記と郷土愛
現代の函館市においても、「箱館」という旧表記は完全に消え去ったわけではありません。市民の中には、自分たちのまちの歴史を語る際に「箱館」という呼び方をあえて使う人もいます。古地図を手に歩くまち歩きイベントや、郷土史に関する市民講座では、旧字の読み方や書き方、そこに込められた時代背景について語り合う場が設けられています。
地元商店街や観光案内所では、あえて「箱館○○」といった名前を付けた商品や企画が展開され、地域アイデンティティを表現する手段として活用されています。こうした取り組みは、旧表記に対する市民の誇りや愛着がいまなお息づいていることを物語っており、単なる歴史的な知識としてではなく、日々の暮らしの中に根を張った文化の一部として機能しています。
学校教育や地域活動でも、「箱館」という表記は教材やワークショップの題材として活用されることがあります。若い世代が郷土の過去を知り、それを通して現在のまちに親しみを持つきっかけとなる場面が増えており、旧表記が持つ教育的な意義も再認識されています。こうした地域に根ざした言葉の選択は、歴史の継承と郷土意識の育成に寄与する重要な手段の一つとなっています。
まとめ
「箱館」と「函館」という二つの表記は、単なる漢字の違いにとどまらず、日本の歴史的変遷や行政制度の変化、地域文化のあり方を映し出す鏡として機能しています。江戸時代の港町として栄えた「箱館」は、その後の明治政府による近代化政策の中で「函館」へと改称され、現在の正式名称として定着しました。
それでも、観光や地域文化の文脈においては「箱館」の表記が今なお多く残り、歴史的情緒や地元の誇りを伝える重要なキーワードとして活用されています。観光施設やイベント、商業施設では、あえて旧字を用いることで、訪れる人々に過去と現在をつなぐ物語を届けています。
また、古文書や地図に見られる表記の違いからは、当時の行政意図や文化的価値観が垣間見え、歴史の奥深さを実感させてくれます。地名の表記に込められた意味や背景をひもとくことは、その土地の成り立ちを知る手がかりとなり、地域への理解や関心を深める契機にもなります。
現在と過去が交差する場所としての函館は、表記の違いという小さな入口からでも、豊かな歴史と文化に触れることができるまちです。旅の途中で「箱館」の字に出会ったとき、その背景にある物語に少しだけ想いを馳せてみるのもまた、ひとつの楽しみ方といえるでしょう。